第一回少林寺拳法実業団大会師家講話(1973年6月24日)

私は中国へ初期の頃は、悪いことしにいっていた。日本軍閥の手先となってです。これは何も知らない10才の時です。第一次大戦の後、日本が同盟を結んでいたイギリスからしめだされ、アメリカとも貿易が出来なくなりました。
「日本はアジアの諸国と仲良くしなくては日本民族が生きる道はないのだ。だからお前達は人柱になれ。」
ということで私達は投入されたわけです。10代ですから大した思想も固まっていなければ、何もわかりません。とにかく張作霖を殺せば田中内閣をぶっつぶせるし、一石二鳥だということでやりにいった。
それから色々な事を経験し、戦争に敗けて帰りました。
その間中国で色々な勉強をした。それはどういうことかと云いますと当時は日本人というのは、皆さんもご存知のように天皇陛下を頂点とした立て割り民族でした。天皇の軍隊、天皇の警察、天皇の管理。そうかといって天皇の軍隊と天皇の警察が仲が良いかというと、これも仲が悪い。ゴーストップ事件みたいなものです。軍隊の中も、歩兵と騎兵の仲が悪い。歩騎砲工といって歩兵が一番えらい、歩くものが一番えらい、ばかみたいな話です。私は、飛行隊へ途中で志願していってびっくりした、飛行隊が一番最新式だと思ったら、5番目ぐらいの序列にある。それで、2年兵が初年兵をぶったたいておる。女郎を買いにいってふられたりすると「コラッ!集まれ‘‘天皇陛下の命によって教育をする’’」てな事を言ってひっぱたく、まるで滅茶苦茶です。
私はそういう両方を経験してきました。日本人というのはどこへいっても派閥があり、だんだん分袋していくのに、中国人は違います。最初苦力(クーリー)で来ても独立心があり多少能力がある人には、みんな郷土の人が金を出し合って援助して組織をだんだん大きくしていく、これが華僑のはじまりです。世界中に根をおろしています。何故でしょうか。横のつながり「帝王なにするものぞ」という中国的な感覚、要するに横のつながりに重点をおいているからです。私は縦も必要だと思いますが、横のつながり、これがなければダメだということを終戦後はっきりと体験しました。一つ二つの例をあげましょう。
私はソビエト国境のスイフンガ(綏芬河)、スイヨウ(綏陽)附近に居た頃、南方からガソリンが入らない様になり、アルコールで自動車を走らせなければならないという特殊エ作を関東軍の本部工作の一翼として担いました。私はネイアン財閥のギーさん一家を引っぱり出してきて、資料や材料を私が提供し工面し、大部金を儲けさせてもらいました。だれやみたいに何千億も潜水艦で運んだりする程の力はありませんでした。私は帰る時には一銭も持って帰ってこなかった。本当にすっぱだかです。これは盗られたのではなく帰る時に全部おいてきたのです。何故かと言えば、私はソ連に進入されるまで居てそして逃げたのです。そして退却する途中で次の様なことを経験しました。
今の若い連中には理解できないだろうが、開拓義勇軍というのを日本は中国に沢山送り込んでいた。中国人が耕した土地をタダ同然でとりあげ、そこに日本の移民を一杯連れていったのです。この連中が置き去りをくったわけです。
たまたま、トーメンショーメンのマンロッコウというところに駐屯していた輜重隊がホロク峠というムーリン(穆陵)トーメンへ行く途中の谷間で、ソ連軍の爆撃をかわしながら逃げて来るのに私は出会った。それが女や子供ばかりなんです。その人達が道端で土下座して“どうぞ乗せてくれ”かたや一方軍隊も逃げているんですが、何故かと言えば牡丹江へ出る一本道なんです。他には何もないんです。にもかかわらず「コラ、ドケ、引き殺すぞ」無茶苦茶ですね。これは日本人じゃない、何とか族である。
それで私がしゃにむに何人かを口説いた結果、ある伍長が「士官に知れたら怒られるから止めるわけにはいかない。徐行してあげるからとりあえず早く乗せなさい」たった一人が助けてくれた。これが日本軍の実体である。文句あったらいってみなさい。これは実話なのですから私は腕ずくでもわからせてやりたい。要するに日本人ではないのです。これは逃げているのです。日本人を見捨てて逃げたのが日本の軍隊であったのです。
そういう中で私は中国人の好意にすがってどうにか生きて来た。同志的結合というかそういう中国にはパンといって色んな組織があり、とにかく人間同志が同民族同志が助け合えるということを私は中国から学んで来た。ところが日本にはそれがない。戦争に負けて、私は身体が良い方で顔は一般的日本人の顔ですからちょいちょい似たヤツがおる。だからよくぱくられました。「お前は警察隊の隊長だったろう」とか「高級軍人が逃げているんだろう」とかで何べんもパクられました。しかしブタバコへ入れられても調べてもらえば私は悪いことをしていないからすぐわかる。

私はしばらく東満総省の役人をしておりました。私がいた“スイヨウケン”だけですよ、あのトーピンを喰わせなかったのは。豆かすの粉を喰わさずにしかも、コーリャンや卜—ミンを関東軍が野積みにしていたのを体よくうまくかつぎ出し(これはもう時効にかかっており、憲兵の目の心配もないから言うけれど)それを私は上手につかって中国人にも金を儲けさせるために、アルコールの製造をトーマンで一番大きくやっていました。でも牡丹江まで逃げて来たときに、トーマン銀行の副頭取をしていた“ブン”さんにそれら全部私はやって来ました。そして千円だけもって帰ったわけです。とれるかとれないか知らないけれど、もう我々はもらえないんだからあなたたちでどうにもしなさいといって権利も金も預金も全部おいて来ました。
それで日本へ帰ってきたら何があったかというと日本は焼け野原。今のベトナムと一緒です。今、君達の年代では記憶にあるかないかわかりませんが、どこへ行っても乞食、日本中戦災乞食が一杯おり、工場もなければ家もない、そういう中で私はどうしたらいいんだろうと考えた。私は日本には家族はおりません。いとこが2、3人残っていただけで行く所がない。で、いとこの所へ行ったら嫁が良い顔しなかったから、又逃げ出して大阪へ行き、工業薬品のブローカーを中国人と一緒に手伝ってどうにか喰えるものをつくった。カッパブックスに書いたとおりです。そうして私がやろうとしたことは、日本人はついこの間まで「日本人は世界一の民族である。天尊民族である。天皇陛下は神様なのだ、私達は神様の家来である。だから偉いんだ!」ということで、中国人も朝鮮人もバカにしていた。ところが戦争に負けたとたんにどうですか、我々が軽蔑していた人よりもっと程度が悪くなっている。いたるところでクソはたれる、タカリはする、もう悪い事の仕放題。アメリカ人を見れば、もうチョコレートをもらおうと想い失礼な話だけれどもナイロンの靴下片一方もらう為に日本人の若い女が皆、操を失った。大和撫子なんかあれはうそであれは大和撫で女だと私は悪口を云った。これは事実ですよ。祖国ソビエトだとか祖国アメリカだとかいいたいやつが一杯おる。僕は決して中国の方が来ておられるからおべんちゃらいうつもりは更々ない。こんな服着とったって皆笑うでしょう。今皆さんは、背広を着ている。でなかったら人民服を着ておる。これは中国の労働服なのです。何故着ているか、引き上げて来た時、物質がない。何もない。僕が着た軍服だけ貰って帰った。ところが冬服もらって夏に帰ったものだから暑くてかなわない。汗かいたから人絹の支那服を作って着た。この下には裸で何もきていない。便利だからです。いつの間にかこれが制服になった。袈裟さえ掛ければ礼服、とれば儀式服。
私は葬式坊主でもなければ説教坊主でもない。喧嘩坊主でとおっている。何故か、喧嘩も出来ないようなヤツはダメだ。正しい事が正しく云えないような世界はダメだ。だから日本民族に天皇陛下をかつぎ出さんでも、横につながる何かがあるはずである。それは中国人にある様な民族愛の様なもの、民族的なプライドというもの、大変云いにくいけれども、中華人民共和国、片一方は中華民国、世界中の真中で一番すぐれた国だと未だに両方がおっしゃっている。これは、私はのぼせ上りではないと思うのです。自信なのです。民族的な。日本人にはそれがない。今頃インフレ気味だが金が入って金持づらしているけれども今の日本に江崎先生がいわれたが、金をのけて何が残りますか。失礼だけれども己が無い日本人が一杯です。

控室の開祖、自治大臣、国家公安委員長•江崎真澄氏、中華人
民共和国駐日大使館参事官•李連慶氏。
大会参観中の来賓
左から松平頼明氏、大会長藤川一秋氏、江崎真澄氏、李連慶氏、開祖、程志邁氏、
潘一鳳女史。

そういう中で、田舍でこの様なことを云って実行した。しかもそれを聞いてくれたのは誰かと云えば諸君や諸君の先輩の子供です。こんなことを貴族院議員とか代議士になったりしておる人に話をもちこんだら“君失礼だけれどもね、君はよそ者だ”
私は、母親は岡山県で父親は九州産、雑種です。大陸浪人のお前達の云うこと誰が聞くかというということです。聞いてくれたのは当時の高校生以下の子供たちです。「お前達はおかしくないか」と云ってです。その時大勢の日本人が数人の外国人にこてんぱんにやられて誰も助けようとはしない。私の住んでいる町でもそうです。強盗が入ったというとみんな戸を閉めてだれも出て来ようとしない。
アメリカに僕の支部が出来ました。英語の本が出てからアメリカに支部が出来、どんどん勉強に来ているし手紙も後で読ませてもらいますが、中国人の町には強盗は仲々入れない。どうしてかというとみんながワーッと寄ってくるからです。ところが日本人の町には一番入りよい。何故かと云えば入ったらみんな戸を閉めて出て来ないからです。こういう状態は正常でない。こういうことで私は日本人の同志的結合あるいは同じ志を持つものあるいは同じ宗教をもつものの横のつながりをもった社会をつくろうと考えたのです。私は“おかげ”や“バチ’’を一度も説いたことはありません。拝んだら金が儲かる、病気は治る、幸福になる、そんな事いったことはありません。
ある宗教団体が何千億集めたとか、何千万いるとかいっているが、大多数といったら失礼ですが、おかげやバチで集まっている手合とうちの諸君の様に一癖二癖もあって、しかもどうかしたらすぐこれを(注;コブシを振り上げて)振るいたくなる様なヤツを集めてしかも一番扱いにくい学生をここまで集めている組織が他にあったらいってみなさい。ないだろう。しかも私はいくらかとり上げ乍ら諸君を集めているんだよ。
今、社会党がダメになったのはね、ストライキやる時に日当をやらなければ出て来ないバカが増えたからです。いやハッキリいわしてもらう。自民党も本当にダメだ。先生の前だけれども私は本当にけしからんと思います。
今日私は大変な新聞記事を読んだ。国家公安委員長の江崎さんにいいたい事がある。これは、私の過去に経験がある。終戦後強盗が入った。私が出て行ってうちの若いもんを2、3人つれてとっつかまえた。何故か?警察が来てくれないからです。今はパトカーが直ぐ来ますよ。持に学生が走ったらすぐ来ます。今日の新聞です。これは江崎さん、ご覧になってないでしょうお忙しいから。私が読みます。「泥棒をなぐって何故悪い」といって学生が自殺をしているんです。これをどうお考えですか?終戦前と後と今の日本どこがどう変っていますか?私が云いたいのは実はこういうことなのです。
私が少林寺拳法という力の裏付けをもった、団結をもった民族組織をつくりたいということに発想が向いたのもこういうことです。これが今日ただ今行われている。「これは23日午後6時頃渋谷の牛乳販売店の2階の宿舎で、中央大学の法学部一年生のハタノ君というのが、泥棒をなぐって何故悪い。その上治療代まで何故払わなければならないのか。不合理だと遺書を残して自殺をしている。という届出があった」今日ですよ、これは!調べによるとですね「ハタノさんは22日の朝、家の近くで配達をしたばかりの牛乳を牛乳箱から盗み出して飲んでいる通行人(38才!中年のしかも40前の働きざかりの男です)こいつが盗んでいるのを見つけて喧嘩になった、でとうとうケガをさせた。泥棒として捕えて代々木署につき出した」私も同じ経験がある。私も泥棒を捕えて警察に付き出したら「警察を通り越して君達がつかまえるということは、反対はしないが…」といい乍らあまり喜んだ顔はしない。向こうは3人づれのヤクザでドスを出して暴れかけたもんだから少々カツンとやりました。私もやりましたが若い連中には「こいつらをのし上げてカタワにして川へほうり込め!」とやったのです。
目には目をと云いますが私は目には指を歯にハンマーでと云いたい方だから、つかまった強盗が開き直ったものだから‘‘コンチキショウ、”こいつをカタワにしてしまえ’’ということです。警察が頼りになりませんでしたからネ、今はどうかわかりません。けれどもこれをみて今日、警察の最高責任者である江崎さんにお願をしたい。代々木署に付き出したのに、同署は通行人も調べた上、ハタノさんは傷害の疑いで調べられた上、治療費の負担まで云いつかった。裁判ならいいですよ。これを警察がやったのです。
これが小さく朝日新聞にのっています。私はこういう世の中が許せないのです。正しいものが正しいと云って生きて行くことさえ出来ない。しかも前途のある苦学の大学生が政治のあり方にも権力のあり方にも失望して自殺をした。警察官もうちには沢山いる。機動隊の諸君も来ているはずだ。どう思いますか?こういうスタイルを、赤い旗振り回しているものだけが敵でそうでないものがすべて良いというのは私はおかしいと思う。明治維新じゃない。昭和維新も含めてです。一番最初に警察権力に鉄砲を向けたのはだれですか?右翼や軍隊じゃないですか。こういう右翼運動と名乗ってるヤクザみたいなヤツが愛国の志士だという考え方は私は大きらいだ。愛国運動じゃない、売国運動だ、こういうのは。私が強いことをいえるのは、私はどこからも金をもらっていないからです。仕事の関係からアメリカからも働きかけがあったこともあります。中国側からも接触はあった。でも深入りはしていない。これは今日も来て下さった事に大変感謝しているけれども、私がお願いしてどうぞと云ったのではない。私が云いたいのはネ、そういう事をとおりこしてアジア人同志顔を見てどこがちがいますか?江崎先生と李先生の顔を見くらべてどっちが日本人かな?皆同じなのだ。私はそれがどうしてにくみ合って殺し合わなければならないのかという疑問をもっている。そこへ今日の新聞を見た。今日は良い材料ができました。江崎先生、これは警察の姿勢に問題あり、です。20数年前と一緒です。強盗を捕えて怒られた。現行犯は誰でも逮捕できるはずなんです。だから相手が抵抗したら、なぐる事だってありますよ。私の時も話がもめて話がつかず県警本部長までどなりこんで政治解決をしました。こんなバカな話がありますか。江崎先生に10年前に云った事が今日また起っている。これは事実です。権力というものが悪用されれば大変なことになる。
内藤隆三郎氏という今の大学立法を制定した張本人、自民党の中の文教委員、タカ派中のタカ派だ。彼が文革中の中国へ行って昭和45年3月30日の読売新聞に毛思想が原動力でプロレタリア+文化革命が一段落した中国をみてきて色々な事を感じた。その教えの根本は「差別なき平等の人間尊重」であると語っています。少林寺の教えとどこが違いますか。人間同志お互いに貴族も平民もない。朝鮮人も日本人もない。お互いが人間というダーマの分霊をもった人間として尊重しようではないか、という少林寺の考え方と言葉の表現がちがうだけである。「人間尊重で利己主義を徹底的に精算し人民に奉仕する共産主義国家の建設に国民が生き甲斐を感じている」と書いてある。「盗難の心配がないこの国へ来て良いと思ったことはホテルでもカギをかけなくても良い。チップやコミッションもいらない。」中国へはまだ行っていませんが、ソ連は行って来ました。大ウソですよ。チップをやればものすごく待遇が違いますよ。

宗道臣師家の講話を中心として、来場者に少林寺拳法の本質を理解してもらうことに主眼をおいた意義ある試みとして、各方面から強い関
心が寄せられ、その模様はNHKテレビ、フジテレビを通じて全国に放送された。中華人民共和国駐日大使館からは、李連慶文化担当参事官
等の高官が出席された

資本主義とどこが違いますか。「2億3千万から3億いるソ連人の中でも共産党員なんてたったの600万人しかいないのですからね。あとはひとつも変っていません。今頃になって日曜祭日にも働け」そんなことを今年の正月にソ連は云い出した。資本主義とどこがちがいますか。

「豊かな国造りの自覚、人民の為に服務するのが義務だ、個人の権利だけを主張することはない。ゴネ得は一切許されない。」ということを私ではない自民党のタカ派中のタカ派である内藤隆三郎がいっているのです。「夜更しをするのもいない。ヨッパライもいない。ヤクザやゴロッキもいない。ネオンもないので、いささか暗いが・・・」とかいてある。それは多少の問題もありましょう。建設途上国みたいなものですから、失礼ですが物質的には貧しくても精神的には豊かで青年が希望をもっている。たとえなぐられたとしても相手が苦学生だということはわかっているはずである。そういう人間から治療代をとりたいという様な人間が、こういう人間が日本人にまだいると思うと私は大変なげかわしい。中国にはそれがない。牛乳を盗む様な馬鹿もいない。物質的には貧しくても精神的には豊かである。
今日の新聞にも書いてありましたが、日本の警察がモデルガンの改造ガンを検挙していばっているがね、中国では民兵の女の子が自動小銃をもってパトロールしているらしい。国民に武器をもたせてですよ。しかも人民公社単位に大砲までもたせているぐらい民政一帯の国が他にありますか。
アメリカにも行ってきたが、アメリカほど治安の悪い国はありません。ホテルのドアをあければHold-Up。イギリスもそうです。イギリスほど泥棒が多い国もない。日本人が空港で被害をうけない人はない程やられている。何が大英帝国だ。こんなにハッキリと大臣の目の前で云えるのは私だけです。なぜでしょうか。私はどこからも金をもらっていない。自力だからだ。私と義兄弟の笹川良一さんでもこの頃変ってきた。私に金をやろうかと云ったが少林寺が金で買われたと云われるのはいやだからひとつそれをのけた男と男のつき合いをしようじゃないかといったら60、70のオッサンが手を握って日本を良くしよう。ということになった。このように話せばわかるし、通じる人はいっぱいいるのです。それをやろうとしない。政府も政府だし行政当局も行政当局だ。本当に失礼だが、江崎さんに云っておきたい。警察の大ボスですからね。国家公安委員長と云えばですね。学生ばっかり目のかたきにしてはいけませんよ。私は坊主でも種類がちがうから私ははっきり云えるのです。
私は中国が来たからといって赤い旗をふったりしない。ほんとうは出した方が喜ばれるかも知れないが、しかし私はしない。それはこびる気がないからです。だからといって馬鹿にしている訳ではない。来ていただいて大変感謝しております。なぜならば28年前から、私ぐらい陰でアジア人の幸福はアジア人の手でといって実践して来た人間はないのです。これは自信をもって云える。このごろ中国復興ムードが高まって来ていますが、この間まで反対のことを云っていた人が、あわてて中国人民服などを着てチョロチョロ行きたがっている。私はちがいますよ。私は終戦直後から中国の労働服を着ています。アジア人の一人として、人情には国境がない。時にアジアの中でも漢民族を中心としたアジアの中の人情の深さを誰よりもよく知っているからである。
今、顔を見たからたまたま云うけれど、そこにいる長沢良太君というのがもと空手をやっていた。彼が今、少林寺拳法を国土開発青年隊の訓練の中心にもちこんで、田中角栄内閣の国土改造論に反対的なというか、私のいいたいことを彼なりにいって「日本列島改造に挑戦する青年運動の展開構想」などといって、何百億という予算書まで作って活動している。若手議員も20数人集めている。我が同志の一人です。日本人の封建時代が長すぎただけにこれを壊して横のつながりの一環として(今日のようなことがあった時、断固としてこれをとがめる)悪いことは悪いと上に向って云える運動によって始まった少林寺はもう止めようもありません。学習院にも沖縄の自衛隊にも支部が出来た。どちらもちょっとまずいけれど条件がそろっているので止めさす理由がないのです。朝鮮人にも中国人にも鉄砲を向けるようなことは決してしてはならない。ということを(今日は右翼も左翼も来ているはずだから)私はいいたいのです。白人と東洋人(中間色)と黒人の三つの民族がほんとうに目ざめて力をもった時、ジャンケンと一緒で平和が出来るという石原莞爾の初期の頃の東亜連盟運動の多少の影響が今でも少し残っているかも知れません。各種民族が手を握れば平和がくる。まずその手始めにアジア人だけでも仲良くしたい。
私をいろいろ云う人がいるが私は国家主義者ではない。日本人が祖国日本を愛せとなぜ云っているか「アメリカにもフランスにも東南アジアにも支部が出来た。組織的に国造りの為の青少年育成運動・思想運動として世界にとりあげられている。そこ迄発展しているのに、今さら日本人として祖国日本を愛せなどいうのはおかしいではないですか」と人は云ってくれる。そこで私はせせら笑うのです。日本人同志さえ仲良く出来ないのに(今日の警察と民間人のように)こんなことが脱却出来ずして、世界のアジアと云ったらこっけいじゃないですか。
まず日本人の中味の改造をやろうというのが私の基本的な感懐です。勇気をもって諸君やろうではないか、右顧左べんする必要はない。
廖先生との時にも申し上げたのですが、自動小銃や機関銃が通常兵器になった時に「ヤーッ」「やるか!」これは馬鹿です。「ヤルカ!」「ズドン」で終りです。瓦が3枚割れた俺の方が強い。ちょっとどこか変えて何とか流の宗派…どこか狂っていますね。
織田信長が天下をとれたのは鉄砲を200丁余計に持っていたからです。しかも鉄砲を持っていたのは足軽組なのです。剣道の専門家、柔の専門家などいらない。足軽でけっこう一番身分の低い者が鉄砲を持って勝ったのです。明治維新の革命だってそうである。それを日本人はわかっていない。だから日本人の考え方を私は変えたい。人間同志が信じ合えてしかも助け合える世界は勝負の世界にはないのです。だから武術とか武道とか術を道に変えたからといって変りやせんのだ。やっていることは同じじゃないか。柔道も剣道もひっぱたき合いをやっているだけです。今の戦争に役立ちますか。ボタンーつで何億も死ぬんだ。そういう時代にそういうものを奨励するから無理が生ずる。私がいい見本です。私の祖父も明治末期の剣道範士だったが、どう教育したかというと「親のかたきだと思ってかかって来い。」もう遠慮会釈なくしばきあげる。子供の頃はかなわないが中学になるとこんどは私が「くそじじいめどうだ」といって時々のばしあげる「ざまあ見ろ」というようなことになるのです。
宮本武蔵をほめる人がいる。互角の力じゃ勝てるかどうかわからないからわざと時間を遅らして佐々木小次郎が3尺の刀をもっていれば4尺5寸の木刀でなぐり殺した。だから最後は誰にもやとわれなかった。日本一の武道家がやとい手がない。人殺ししか能がないからです。そういうものはいりません。私はそういうことは教えていない。少林寺拳法は守ることが主であって攻めることは後であります。
少林寺が目指すことは何かということで実はアメリカからの手紙が来ました。学生の手紙です。読ませていただきます。「前略、私は金剛禅に大変興味を魅かれました。我等の高度に文明化された社会において本当に私達の生きるべき道や自分自身の存在の意義を考えさせられました。人々は皆粘土のようななきがら、まるでロボットのようなものです。ひどく悪い生活のリズムや労働環境にとらわれて、帰宅後はコマーシャル化したテレビを見て一様に偽善の固いよろいでおおわれて日常生活は月賦販売に依存する。全く消費生活者です。ある人は物質的なものを切望するが、それによって満足することはありません。いってみれば精神的な空虚さです。汚染と腐敗と堕落がいたるところにみられます。中でも精神面に顕著です。失望そして暴力が渦巻いています。私は全てがいつかは終るだろうと自分自身に問いかけます。
ある人は、いかに生きるかということを知ることもなく、物質的なものを得ることのみにまどわされています。そういった人たちは望むものと現実にあるものが一致していないといいますが、彼等は自分自身の態度ややり方、見方は一致し、似あってさえいます。
先生の人生観や人間の存在の意味する調和のとれた心と体、そして精神を探し求めている良心的な人々に一つの方向づけをしていると確信しています。今日反キリストという考え方が流行していますが、利己主義者、金儲主義者、快楽主義者、そして金のためなら他人を利用し、すご腕を発揮する悪人も皆、宗教心はもっているはずです。でも本物がないから探し求めているのです。私もその一人です。私は少林寺拳法を通じてこれからの人生を生きていきたいと思います。勉強したいと思います。学生として勉強させて下さい。少林寺拳法の人生観を正しく学びたいと思います。私が住んでいる近くには少林寺の道場はありません。また当地では余り知られておりません。
私は学べることはとても幸福だと思います。私は28才のフィリピン人とスペインを含めアメリカインディアン。チェロキー族の血を引くアメリカ人です。陸軍の補給関係の仕事でベトナムでも勤務しておりました。現在は電気技師をして貯金も少しありますので日本へ行って勉強したい。出来ましたら御返事をいただきたいと思います。」
こういうアメリカ人がいるのに、日本人のうちの拳士の中でさえ、こういうことがわからんでチャンバラの先生になりたがっているバカがおる。だから私は今年の正月、減ってもいいから質の良いのにやりかえたいといったものです。
毛沢東の紅衛兵運動を少林寺もやろうじゃないかというわけで下からの突き上げを新しい年から始めた。腐った幹部は下から突き出す。
日本の繁栄は本物なのでしょうかもう一度考え直してみよう。少林寺拳法が何故まじめな若者の心を捕えるようになったのか、そして中国とどういう形でつながり、変化しているか。毛沢東さんの言葉をかりて、ちょっと云わしていただきたい。毛さんは50年程前、自分が中国に古来あったいろいろなものを研究してみて、現在中国の学校で実施している体操を猛烈に批判しておられる。この体操は非常に種類が多い。数十種類もあるが鳥が林に巣を作るのは一つの枝でいい。大河の水も人間が飲むものには、腹一杯でいいという宋子の言を利用して一つの方法で効果が上ることがわかればたとえ100の方法があってもあとの99はいらないと極限をされてですね、自分が六段運動というのを作られた。手足、胴体等の運動、座った姿勢で拳を握り、腕を前方に押したり曲げたり3回せよと、これが中国の武道と体育を研究した当時のエリートの毛さん体育論なのです。それでこれをその頃に私がいろいろな形で引用させていただいた。日本の柔道が行きづまっています。世界選手権もとれません。ヨーロッパに会長はとられた。何故だろうか。それは勝負の世界に深入りしすぎたからです。私は前に述べたが「中国の毛主席は体育論で日本の柔術は中国の余技を集めて作ったもので、と指摘されている。
柔道は中国の武技と関係の深いものである。勿論全部が全部中国のものだとは云い難い。日本人の創案も工夫も加えられていることはたしかである。その成立に大きな影響を与えていることも事実である。しかしそれを頭から否定する武術家の考え方は誤まっている。明治以来中国を、べっ視、馬鹿にする考え方が表われていると見てよい。
戦後、日本で復興された少林寺拳法も毛主席に云わせれば日本人は再び中国の余技を集めて、少林寺拳法をつくったと云うかもしれない。しかし我々はそれにあえて反対したり否定したりする必要はない。何故なら、たとえもとは異民族のものでもそれが良いものと分ればそれをとり入れて、我ものとなし、長をとり短を補って改良しそれを自国の民族に適合させ、育て上げることは何ら恥ずべきことではない。むしろ自信をもってこれを誇るべきと私は信じておる。
私はうちの指導者用の教範の中に10何年前にこういうことをちゃんと入れてある。私は昨日、今日の中国ブームに影響されて方向を変えた人間とちがうのです。私は日本人だからアジア人の一人だ。日本の歴史をみてみなさい。文字をみてみなさい。皆中国のものだ。武道だけが日本じゃなかったらいけないのか、そういう感覚で最初から馬鹿にされながら、くさされながら中国のものであると一貫して通してきた。中には中国通を自認する人が大極拳と少林寺は大分違うという。当り前だ。違うから流行るのだ。今の軍隊をみてみろ。明治時代のように羽織を着て袴をはいてワラジをはいて勤まりますか。時代と共に変るのです。それが何故恥ずかしいのか。そういうことが自信がないから云えない。私は20何年前からこうやって怒鳴り続けて来ました。
私は病気中です。5分以上しゃべるな、アレは喰うな、コレは喰うなと云われた時に心機一転をした。死ぬ死ぬといって何度目か判らないが無理して入院しても仕方がない。あとは生命力の問題だ。私を必要とするのは天が決める。ダーマが決める。だから死ぬまでがんばりつづけるつもりです。どうぞ私の真意を解っていただきたい。私は決して少林寺だけが良いとは云いません。毛さんが云われる様に方法が100あっても良いものが一つあればそれだけでいいじゃないか。
この間も参議院議員に立候補したいという人が僕の所へ来てこう云った。この前武道祭でお会いした時は41段で今度僕は51段になりました。「あっそうですか、何故ですか」と聞くといや柔剣術の会長になったから10段くれました。それで51段です。「何故あなた、一度落選したのに又出たいんですか」とたずねたら、官僚が生意気だからね、俺が代議士になったとたん局長を電話一本で呼び出せるのに、ところが落選したとたんに課長に呼びつけられる。こんな馬鹿な話はない。——こんなのが政治家になったら世の中どうなりますか。
最後に、これもアメリカ人ですが、カリフォルニア大学を卒業して哲学博士号を今、申請している段階のスティーブメリットというイギリス系中国人が今本部に来ています。それを読ませていただいて最後のしめくくりとします。
前文略、私は3年前カリフォルニア州のバークレーで金剛禅運動の勉強を始めてから非常に興味をもち、バークレーの創設者である庄司恵一さんが日本に戻られてからも練習を重ねてまいりました。そして昨年の8月に少林寺に憧れて、日本へ来てそして藤沢道院に通い最近新宿で2段をとることができました。ところがバークレー支部でメンバーが急増して2人の指導者ではとても足りない。太田光信君とフトンチェンという(これは中国系の3世の華僑の有力者の息子です。これも私のどころへ一年程留学に来ておりました。) 人と中心となってアメリカでこういう運動を始めているのですが、彼らから応援を求めてまいりました。フトンチェン君は日本において金剛禅の色々な難しい問題について関連性と調和性について充分時間がとれませんでしたので、私に高いレベルでの討論をするには、どうしても英語力が不足ですので早く帰って来てくれということなのです。私個人としては少林寺をもっと勉強しつつ有機的構造からなっている高度的技術と思想を学び、正統な基本を教える為にそちらへ参りました。
「第二に少林寺の組織は最近急激に増大しております。その教義や技術が誤解されて教えられかけております。格斗競技になり下って問題になる可能性もあると思います。」(これは重大な発言であります。)格斗競技になりさがるという事を外国人から指摘されているのです。アメリカでは皆ピストルを持てるのです。そういうところで空手や柔道の先生が皆技術だけを売りに行かれるからヤクザみたいなやつが増える。彼は彼なりに哲学博士になるような人だからそう思う。なり下ってはいけない。「良い指導者にめぐり会うことが出来ないので重要な思想の伝達が出来ない海外の一人の指導者として、このような基本的な日常生活においても適格な行動の表現すべく責任を感じております。このような目的で本日本山に訪れることにしました。少林寺拳法を行とする金剛禅運動を理解するには日本語はまだ不十分ですが、今日の社会の様々な面において少林寺の金剛禅運動というものは是非なければならないと思います。」一という手紙をもらいました。こういう時代なのです。そういう時に少林寺を利用してて自分の名誉や金儲けをたくらんだり、弟子が育つのを押えたり、ということをする指導者が少林寺にもぼつぼつ、劉少奇的存在が出来かけてきた。だからあえて片腕切り落しても片足切ってもケガになってもかまわないから、質の改善をやりたい。学生諸君にも昨年から正義の勇者になれ、行動ができる青年になれ、紅衛兵運動をやろうではないかという呼びかけを私は始めた。この間の大会で松平先生に初めておほめの言葉がいただけたそうで、ありがとうございました。本当にね、今の少林寺が考えていること、それがわからないやつはリーダーではない。私がつくりたいのは、指導者なのです。そういう意味でチャンバラ屋ではないのです。
私は田舎に住んでいます。人口1万人足らずの街に住んでいます。しかし今は講道館の数倍の道場とその他のものと正味49万8千人、支部1,400出来ますが、私が毎月回っても3年半かけなければならない規模になっている。こういう機会を借りて私の初心を申し上げた。どうぞひとつ少林寺を愛し、少林寺を一つの寄りどころとして、日本人の人格改変に大きな力をもって来た少林寺をもっと広めて、世界中が合掌できるような世界をつくりたい。ということを御理解ください。
長沢君の云う「思想改造は国土改造に優先する」というところで一致したのもそれなのです。江崎先生も10年前に一致したのもそれなのです。
時代の先取りをやっているのです。いつかそういう時期が必ずくるであろう。そうなった時には遅いんだということが私が20年来云って来たことなのです。
私はカッパブックスに色々なことを書いたが、今ごろ総理大臣が、人づくりは国づくりから、これは佐藤栄作首相が云ったが、そういうふうに始ったけれども敗戦直後からこういうことを云ってきた私は保守反動の気ちがいと云われた。保守反動ではありません。私はもっとも新しい感覚をもっています。真似しているわけではないが、毛さんが良いことをやったら真似したい。紅衛兵運動をやろうではないか。少林寺も腐ったらね、上から云いにくかったら、下からつるし上げて摘発してほうり出せと、それには勇気がいる。本当の勇気があるならやってみろ。
今年から学生が変りましたね、ハッキリわかりましたよ。やっぱり声をかけなければだめだ。僕は今年から学連の諸君を見直したし各大学の主将クラスを認めかけてきた。でもまだわからない。来年度の主将がどんなやつになるかわからないから、くだらんやつを出したらぶっつぶす。私は腹を決めている。合法的に動かなければ、非合法にでも、消してやろうと思う。害のあるヤツはいない方がいい。私はそういう感覚でやっています。
もう一つは日本で赤旗とダンスホールという題で書いたのがいたが、祖国ソビエトよ!なんていう。僕はソ連を見てね、高く立て赤旗をモスクワに!、というヤツが増えたらね、これはえらいことになってしまうと思います。又ある代議士のように、アメリカに、アメリカの一州にしていただいて、ハワイは一つ、ハワイみたいに!、というバカもおる。そういう中で日本人の日本をつくるために私は運動をこれからも続けたい。
どうぞ一ついうことをわかっていただいて、よろしくお願い致します。

第2回実業団全国大会
1975.10.19 愛知県体育館

(注)一部、不適切な表現が含まれていますが、当時の時代背景、オリジナリティーを重視して、講話をそのまま記載しております

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